2010年5月13日木曜日

恩人の訃報

今日の出来事です。電話口でその女性は「言いにくいのだけれど」と前置きをしてから私の恩人の名前を口にした。まさか、どうして、という想い、そして後悔。ずっと気になっていたのにどうしてこちらから連絡しなかったのだろう。くそっ、どうして。

私が最初の広告代理店に就職し、始めてのクライアントとなっていただけたのがその方の経営する美術画廊だった。出会って間もない頃、その方が霞会館で昼食をご馳走してくださった。社会人になりたてで世間知らずの私はそこがどのような場所かも全く分からなかった。「かぞく会館」って家族全員が会員になっているってことかな?という感じであった。それどころか、「食前酒はいかがしますか?」とソムリエに聞かれ、ドギマギし、こういうときは何か頼まなくてはいけないものだと勘違いした私は「では、シェリー酒を。」と格好つけて答えたのだ。その方は特に気にも留めていないだろうけれども、今でも「小僧の分際で、あの時は失敗したなあ。」とよく思い返す。
私はその方の雰囲気がとても好きだった。ハンサムでお洒落で格好良いのだがこれ見よがしでなく静かで品があった。駆け引きが無く、信頼してくれ、何でも相談してくれた。私も「この人のために!」という想いで仕事をした。私はその方から多くを教わり、そして随分助けていただいた。
先方の社員の間ではその方のことを「殿」と称した。私はよくある社長に対するニックネームかと思い、気にしなかったのだが、その方がある戦国武将の家系の13代当主だったということを後に知ることとなった。なるほど、滲み出るようなあの雰囲気の理由に合点がいったのを想い出す。我が家には戦国武将たちの兜24個がガラスケースに入った古い5月の飾りがあるのだが、例年一番真ん中の良い場所にその方の家系の兜を据える。つい一週間前にも息子にその兜の話を聞かせたばかりなのだ。
結局、その方の美術画廊がオープンしたときから残念ながらクローズするまで仕事のお付き合いは継続した。途中、私の結婚式にも出席いただきスピーチも引き受けてくださった。正直言うと、スピーチの内容は最初の少しだけしか耳に入ってこなかった。後はその方が私などのためにスピーチしてくれているという風景がまるで夢を見ているようで、また、その方が少々健康を害されているのにそれを押してお話いただいているという状況に涙が出そうになるのを抑えるので精一杯だったのだ。
ある時、こんなこともあった。私は一大決心をしてご夫妻をおひょいさんのワインバーにご招待したのだ。妻と4人でテーブルに着き、私はビンテージワイン用のデカンタージュクレードル(ボトルを蝋燭で透かして澱を見ながらハンドルを回すとボトルがゆっくりゆっくりと傾きワインが注げる装置)というものをプレゼントさせていただいた。私は相応のワインを注文しようとしたのだけれど、その方は結局そのお店で最もリーズナブルなハウスワインの白と赤以外は頑として受け付けなかった。澱などあろうはずもないその真新しいボトルに、件の装置の出る幕もなかったのだが、その方はめいっぱい無理をしていた私にお気遣いなさったのだ。そういう方なのだ。ますます私は魅せられてしまうのだった。

来月、その方のお別れ会が旧華族会館「霞会館」で開かれる。そこへ行ったら、窓際のあの席で「ああ、古荘さんお久しぶりですね。」と静かで優しい声をきかせてくれる…今は、まだ、そんな気がしてしまうのだ。

オフィスプロモ株式会社 代表取締役 古荘洋光